桜と名古屋城



昨日は名城公園内でお昼休みを利用してお花見。


名城公園内にある御深井池のほとりから


桜の窓から覗く名古屋城をパシャり。


現在、この名古屋城の老朽化から


天守閣木造復元に向けて動きが活発になってきている最中。




名古屋城は、織田信長誕生の城とされ、


「名城(めいじょう)」


「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」


「金城(きんじょう)」


と呼ばれていた。


この通称もとても愛着がある。


この名古屋城下街には「名城」や「金城」という地名が


今も残っているからだ。




今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、


徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。


以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城。


16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた


柳ノ丸が那古野城の起源とされる。


この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあった。


1532年、織田信秀が今川氏豊から奪取し


柳ノ丸から那古野城と改名されたのだそうだ。





信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長は


この城で生まれたといわれている。


のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、


1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に


本拠を移したため、廃城とされた。


かの鬼才の名将、織田信長が生まれたとされる城が


のちの名古屋城二ノ丸にあったのだ。


名古屋の人でも知らないのではないだろうか。





これらが木造時代の名古屋城です。


1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、


本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが


焼夷弾の直撃を受けてこの写真の姿の大部分が焼失してしまいました。


この写真をよくよく見ると


天守の窓部分の形状が多少違う様に思えます。


ただの想像ですが。





名古屋城は現在、老朽化と耐震不足に伴い


再建築と補修補強のどちらかの選択を迫られています。


市長は強行的に木造建築再現を推し進め


市民団体はその行政とその取り巻きの言動から


木造建設に対して否定的な態度を表している様です。




個人的な観点ではこの時代の鉄筋コックリート建築は


100年は保つと言われていたそうです。


ですが、結果50年程度しか持ちませんでした。


木造建築であれば300年でも1000年でも保つことは


神社仏閣など様々な重要文化財を見てもわかります。




その維持管理にかかる予算などをやり玉に挙げる意見もありますが、


それろも雇用などの面で一つの要素になるのではないでしょうか。


長期将来的予算においてもどちらが良いのか一目瞭然です。


木造建築復元と木造建築技術の継承をしてもらいたいと思います。


それが長期的な文化財として長く残され、


名古屋の観光名所として多くの方々に知っていただけたら


全ては丸く収まる様な気がします。



ただし、これは付け加えておきます、


僕は行政支持者でもありません。


知り合いのアーティストWashio画伯が描いた


金シャチ横丁のHPはとてもカッコイイですが、


金シャチ横丁自体は全然支持できない・・・


名古屋の文化も芸術も何も感じないのです。


ただただ残念です。


フランチャイズ飲食店だけが立ち並び


名古屋文化がそこにあるとは到底言えない。


芸術や古典文化を感じられる様な趣も全くと言っていいほど無い。


有松の伝統工芸などたくさん伝えられる文化はあるはず。


ここには行政の思考と趣向の無さを存分に感じさせられました。




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